1950年~1984年

1950年~1956年 復興への積極的前進

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昭和25年4月には船舶運営会より民営還元に。約8年にわたる管理統制から脱却し、業界は希望多い再生の転機を迎えました。
当社も所有船舶を逐次三井船舶株式会社との間に運行委託や、定期傭船契約を締結するなど、経営の合理化に努めました。
昭和25年第5次計画造船明光丸、昭和26年第6次計画造船明徳丸がそれぞれ竣工。
昭和28年には第8次計画造船タンカー明泰丸を竣工し、タンカーとして本邦初の定期傭船方式により東燃株式会社と契約。これは、後年当社が標榜する大型専用船による長期傭船方針の重要な礎石を築くものです。
そして昭和29年、第9次計画造船として当社初の定航用船舶明倫山丸、続いて昭和30年第10次計画造船定航用僚船明啓丸がそれぞれ竣工しました。
一方、昭和21年以来進駐軍に接収専用されていた明海ビルも、昭和27年4月には全館接収解除となり、同年6月より新装再開。在来ビルとしての特徴を生かし満室となり、その後盛況を持続しながら、現在に至っています。

1956年~1964年 新たな発展

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昭和31年7月スエズ運河の航行途絶を契機に、市況は白熱化、いわゆるスエズブームが訪れました。
当社の船腹拡充と船質改善の積極策は着々と推進されます。
まず昭和31年5月戦標船明優丸を売却。これによって所有船舶のすべてを戦後の新造船、計6隻65,316重量トンとしました。
昭和31年7月には貨物船の大型化に先鞭をつける第11次計画造船明哲丸、同12月には第1次自己資金船明竜丸が竣工。その後、昭和35年までの5年間に、相次いで8隻が竣工しました。
ところで昭和32年4月、スエズ運河の再開のころと前後して、市況は予想外に転落、海運業は不況を迎え、構造の変換が迫られます。
当社はこれにいち早く対応し、船体整備計画や運営方針を大きく転換。例えば、三井船舶の長期配船予想に適合する高能率貨物船を、本格的な長期傭船方式をもって契約したり、東燃株式会社の原油輸送計画に適合する大型タンカーの竣工を実施するなど、船体の再編成を大幅に推進。この結果、昭和39年4月末には所有船舶13隻、212,349重量トンとなるに至りました。
なお、累次の増資を経て、昭和31年10月当社資本金は18億円、また、昭和32年7月明海ビル新館増築工事竣工により、明海ビルは、鉄筋コンクリート造地上8階、地下2階建、新旧館計廷12,653平方メートルとなりました。

1964年~1967年 集約参加と再建の達成

極度に悪化しつつある海運業の再編に向けて、昭和38年7月、海運業の再建整備に関する臨時措置法と外航船舶建造融資利子補給及び損失補償法の施行が実施されました。
これを受けて、わが国の外航船腹量のうち9割を占める95社が、6つの中核体とその系列・専属会社に集約されることとなりました。
こうした状況の中で、当社も大阪商船三井船舶株式会社グループに専属会社として集約参加することになったのです。
当社の再建計画は極めて順調な経過をたどり、当初の予定を早め41年9月末をもって償却不足を解消、同法による再建を達成。続いて同年10月には廷滞金も解消し、経営基盤も著しく安定するに至りました。
なお昭和39年4には関係会社明海興産株式会社が発足し、現在に到る基礎を形成し、同年8月には明海ビル別館新設に伴い、本社事務所を同所に移転しました。

1967年~1972年 社業の躍進

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再建達成後も企業努力を怠ることなく、復配態勢を整え、昭和42年9月期には同業他社にさきがけ年6分の復配を実施。
また同年8月には、当社はもとより当時の計画造船史上最大の船型となった15万トン型タンカー明扇丸(左写真)を東燃株式会社向けに竣工。
同年12月、ゼネラル海運株式会社、新造大型タンカー豪虎丸の船舶管理業務の受託、昭和43年4月、関係会社明海石油サービス株式会社の設立など社業進展に向けてさまざまな積極策が講じられました。
ところで、当社は昭和45年4月に始まる事業年度より、1年決算に変更。運航コストの低滅を図る巨大船時代にマッチして同8月には第25次計画造船として20万トン型タンカー明原丸を竣工。
また、老朽貨物船のリプレースを考慮しながら、より市場性の高い貨物船の新造と、さらに高効率のタンカー・専用船の増強を企図。自動車・撒積兼用船、明高丸・明竜丸や木材チップ専用船、森丸などを順次竣工しました。

1972年~1974年 不況への転機

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その後も、所有船舶の更新整備を進め、自動車専用船鶴見丸を昭和48年6月に竣工。しかし昭和46年夏の米国ドル防衛策の発動に基づく為替市場の混乱、通貨不安、船腹需給の不均衡による世界海運市況の不振などのあおりを受けて、やがて海運業界はもとより、国民経済は斜陽のムードを強めました。
そして昭和48年10月第4次中東戦争の勃発、その停戦と同時に実施された第1次オイルショックは予想外の世界的経済危機を招きました。
このような激動環境下の中で、当社は全社的な経営合理化をすすめ、一時無配と転じた業績も、何とか復配を達成しました。
しかし深刻な不況の波は、やがて当社にも深刻な陰を落としはじめるのです。

1974年~1978年 構造不況の重圧

昭和48年の第一次オイルショック、これに続く長期不況による海上荷動量の滅少、世界的タンカー船腹量の過剰などから、50年に至り、日本の海運業界は一挙に経常損失に転落。また人件費等の急激な高騰による国際競争力の低下、不況に対する耐久力の不足、さらにギリシャ、香港、台湾、韓国等の新興海運国の勃興により、いよいよ大量倒産が懸念されるに至ったのです。
東燃タンカー株式会社との共有船、第29次計画造船明泰丸を新契約方式のもと昭和49年8月竣工。
さらに、国際競争力を失った貨物船は順次海外へ売船し体力の温存を図りました。
一方、当社は日本経済の国際化に対応し、海外事業への進出を目指し、必要に応じ現地企業との合弁会社を設立。中型タンカー、自動車専用船、撒積専用船、チップ専用船等の新鋭船を相次いで建造、貸船又は運航しました。
また昭和49年7月、三井物産株式会社との合弁で設立したインターナショナルマリンコンサルタント株式会社は、当社の船舶管理技術を活用し、外国船主向けの新造監督・管理業務の請負等を展開。経営多角化による、不況下における企業の経営努力に傾注しました。
なお、昭和52年4月には予断を許さない情勢に対処するため、東京本部を新設の上本社機構を移し機能を一元化しています。
昭和53年3月末現在の当社所有船舶は、7隻579,292重量トンとなりました。

1978年~1984年 減量経営により安定へ

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イランの政変による産油の大幅滅少と、OPECの大幅な石油値上げ〈第2次オイルショック)、また昭和55年のイラン・イラク戦争の発生に伴う国際的緊迫等の不安材料は、世界の海運業に大きな影響を及ぼしました。
そして日本の海運業界は、これら世界的な海運業の苦境に加えて、日本独自の船員労働条件の適正化を中心とした諸経費の徹底合理化、すなわち安い海外の労働力に打ち勝つだけの高い国際競争力をいかに回復するかという、最大の課題が露呈したのです。
当社も懸命の経営努力により昭和56年4月には、自動車専用船明洋丸、昭和58年9月には、同じく自動車専用船明豊丸を自己資金により新規建造いたしました。